アフリカの植民地分割 奴隷供給地だったアフリカが植民地として分割された。【経緯を地図とイラストで1分解説】
アフリカはもともと住民がいくつかの帝国や勢力圏のなかで暮らしていました。植民地以前のアフリカ資料:マルク・フェロ―著・片桐祐、佐野栄一訳『植民地化の歴史』新評論この大陸は後にヨーロッパの強国によって蹂躙されていきます。大きく2つの段階があります。1.奴隷供給地として2
アフリカはもともと住民がいくつかの帝国や勢力圏のなかで暮らしていました。植民地以前のアフリカ資料:マルク・フェロ―著・片桐祐、佐野栄一訳『植民地化の歴史』新評論この大陸は後にヨーロッパの強国によって蹂躙されていきます。大きく2つの段階があります。1.奴隷供給地として2
イギリスはインドへ行きたいイギリスはインドを植民地にしていました。イギリスがインドへいくにはアフリカ最南端ケープタウンを経由して行くコースがありました。ちょっと遠いです。ここで朗報です。1869年、エジプトにスエズ運河が開通しました。建設したのはフランス人
アフリカ横断フランスは、アフリカ大陸をヨーロッパ諸国が分割することを決めたベルリン会議より前の1857年にアルジェリアを征服、1883年にチュニジアを保護国としていました。そこを起点にアフリカ全体に接続できるような構想をもっていました。アジア方面へ出る経路を東側へ進めようともしました
アフリカ分割 ドイツドイツは、イギリス、フランス以外の場所を確保します。東(タンザニア)・西(カメルーン)・南(ナミビア)の三角形+ギニア湾(トーゴ)です。ドイツの植民地(1914年)
イタリアはエチオピアを狙いに行きました。ところが、戦争でエチオピアが勝利し、植民地にはならず独立を保ちました。イタリアの植民地(1914年)エチオピア支配がかなわなかったイタリアは外側のソマリランドを獲得し、インド洋へのアクセスを確保します。次にオスマン帝国領域だったリビアを
ポルトガルは早い時期からアフリカに接触しています。15世紀には奴隷貿易の拠点としてギニアビサウを、コンゴ川から入りアンゴラを奴隷供給地としました。大航海時代にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが到着したのがモザンビーク。これを機に植民が開始されました。
スペインは、ポルトガルから割譲された赤道ギニアとスペインの対岸部、そして現在もモロッコが領有を主張している西サハラです。
ベルギーはアフリカ植民地化第1号です。ベルギー国王が派遣した探検家のスタンリーがコンゴの魅力を発見し1885年ベルギー国王が私的に領有を宣言しました。これをきっかけに、ヨーロッパ諸国がアフリカ争奪戦を繰り広げたのです。のちにベルギー国はコンゴを国の植民地としました。
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