アフリカはもともと住民がいくつかの帝国や勢力圏のなかで暮らしていました。
植民地以前のアフリカ
資料:マルク・フェロ―著・片桐祐、佐野栄一訳『植民地化の歴史』新評論
この大陸は後にヨーロッパの強国によって蹂躙されていきます。
大きく2つの段階があります。
1.奴隷供給地として
2.植民地として分割
1.奴隷供給地として
ポルトガルはヨーロッパのなかでいち早く15世紀から、ブラジルを植民地としていました。
植民地では働き手が必要で、その労働力をアフリカの西海岸から奴隷として連れてきていました。
奴隷は貿易システムに組み込まれた商品でした。
ポルトガルに続き、オランダ、フランス、イギリス、デンマークが奴隷貿易に参入しました。
人道的に問題とされ奴隷制が廃止されたのは、1833年以降です。
2.植民地として分割
コンゴから
アフリカは奴隷供給地としてしか認識されていませんでしたが、奴隷制度廃止後、ジャーナリストで探検家のスタンリーがコンゴ川を発見したことで、コンゴが注目されました。
スタンリーは、ナイル川の源流の探検に出たリビングストンが行方不明になっていたところを、探しに行ったのです。
スポンサーはベルギー国王でした。
スタンリーはコンゴ川を下るとアフリカ西海岸に行けることを発見し、コンゴの魅力に気がついたベルギー国王は個人的に領有、植民地にしました。
これにものいいをつけたのが、ヨーロッパ諸国です。
この争いをドイツの外相ビスマルクが調停にのりだしました。
主導権を握って自分もアフリカの領土を得たいと考えたからです。
調停の場はベルリン会議です。1884年に開催されました。
ベルリン会議には、ベルギー国王、フランス、ドイツのほか、ポルトガル、イギリス、スペイン、イタリア、アメリカなど14カ国が参加しました。
そしてこの場で「ヨーロッパ人同士が合意すれば国境を決めていい」の原則が決められたのです。
これをきっかけに、ベルギー、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペインがアフリカに殺到し分割したのです。
イラスト・さいとうじゅん
それぞれの国がどのように分割したのかは↓